私と「推し」
0導入
駄文、長文、とりあえず書き残してみよう。自己分析と銘打って…。
誰かに見せる用、と言うよりは壮大な書き残しみたいなものになる(予定)。
何処に需要が、という疑問を言い出したら、世の中のもの大抵需要はないし、また、同様にすべてに需要はあるので、いったんそれはナンセンスな問いとします。
先日苦心の末、芥川賞受賞作品「推し、燃ゆ」を読みました。(全然売ってない)
(注若干のネタバレを含みます)
推しを押すことが生きるすべてで、自分の背骨のようだと感じる女の子のその推しが暴行沙汰で炎上。詳細は明かされていないものの心に障がいをもつ彼女は、推しという存在を介して社会との接点を持ち社会生活を営んでいた。しかし炎上をきっかけに(一般)人となってしまったその人を推すすべはもうなく、途方に暮れ、生きることへの活力を失っていく…。
そんな話ですよね?
言い訳させてください。
私は、国語が苦手です。
中学生の時、模試の物語文で登場人物が亡くなったことに気づけず失点したことに始まり、誰が誰を好きみたいなのも読めなかったし、文学嫌いなんですよね…比喩とかいらないんで、具体的に端的にお願いしたい。(最悪)
なので、あらすじの解釈違ったらごめんなさい。陳謝。
そして本題です。
私は、その「生きるということは…」という主題には畏れ多いので触れず、「推し」という点に着目してみたいんです。
この本を読んだら、「自分にとって推しとは」みたいな言わば身辺整理をしたくなりました。
あとはかなりこの本と境遇が重なるところとかあって驚いたり、分かりみが山よりも高く海よりも深かった。
1私のファン遍歴
初めて芸能人を好きになったのは小学五年生くらいのAKB48篠田麻里子さんでした。謎解きバラエティのTORE!みたいな番組(調べないまま書き出してすみません)に出ていて、一目惚れしたのを覚えています。じゃんけん大会で優勝したときは塾の壁に頭をぶつけのは忘れません。
でもそれは小学生のしていた「好き」であって、まあ幼稚園の時に好きだった人いたな~あれが初恋かな~と同じ感覚です。語弊を恐れず投げ捨てる言い方をすると、おままごとでした。
さあ、運命が変わるのは小学校六年生の終わりごろでしょうか。EテレのiCarly視聴者だった私はそのまま次期のvicTORIousを観るわけですね。多分妹がたまたま観ていて一緒に観ていた気がします。
その時に出会ったのが今では世界トップクラスのセレブリティ Ariana Grandeになります。
当時は栗色の地毛を高頻度で真っ赤に染めて、細かいカーリーヘアがトレードマークの超天然な変わり者の高校生Cat Valentineを演じていました。今よりも年頃の女の子らしく健康的な体つきをしていて、ダウンヘア。主人公でもなかった。
でも私にはほかの誰よりも彼女が私の視界に、脳裏に住み着きました。
ドラマは芸術高校が舞台なので、当然歌うシーンが数多く。
歌声を聞いた私は、主人公が一番歌の才能を秘めている…という設定なのに、そうは思えず。(もちろん主人公役の方も歌が素敵で、今でも聞きます。まっすぐ届く声です。)
その時に見たヤフー知恵袋今でも忘れません。
「トリ―(主人公)よりもキャットのほうが歌がうまい気がするんですが、どう思いますか。」
こんな質問でした。
震えました…。私だけじゃなかった、っていう…。
当時、ガラケーユーザーだった私は、家のタブレットで写真を調べて、それをガラケーで撮影することで写真を入手していました。
だから必死に名前を入れて検索するんです。
ビクトリアス、VICTORIOUS、キャット、キャット・バレンタイン、Cat、Cat Valentine
…………等々
もちろん、アリアナグランデ、Ariana Grandeもやりました。当時、日本語の記事で引っかかったのは2、3ページだったと思います。
画像検索も目新しいものは入ってこず。
ガラケーの待ち受けにしていた写真は、当時(中1、2)はよく「誰?」って聞かれました。
今じゃ皆知った顔してるのにね。笑
さあ、ここがわたしの激重拗らせの第一楽章の始まりです。
薄々気づかれている方もいるかもしれませんが、鬼の同担拒否の気持ち、そして「好き」ということに対するハードルの高さたるや…
彼女の家族、幼馴染、パフォーマンス仲間(なかまって打つと中間になるマイPC)以外、彼女のファンを、彼女を「好きだ」と公言するのが許せないんですよね。
恥ずかしながら現在も治っておりませんが。
そして、「好き」と公言することに対するハードルは、マリアナ海溝がすっぽり中に入るほどであります。
話を戻します。
vicTORIousを観ながら、小学生ぽこぽこは鬼検索の末、まだ彼女がCDを出していないことを知っていました。
運命が動き出します。
中学一年生の夏ごろでした。
原宿・竹下通りを抜けたところにあるお店(今はなきforever21かその横にあったH&M、どっちか忘れる痛恨のミス)に行きました。2階の窓側の洋服を見ていた時、聞き覚えのある「Baby」の発音を耳にしました。
この発音、絶対知ってる―――――――
ハッとしたけど、
え…CD出してないよな。でも発音が彼女のそれだったよな…。
脳内をそれに占有されながら電車に揺られ帰宅。しかし、タイトルはわからないので、鬼検索再始動。
その末、見つけ出したのが運命の一曲「Baby I」でした。
1stアルバム「Yours Truly」の収録曲。トラックナンバー2。2013年8月30日リリース。
本当に出会えてよかった。あの時あのフロアにいなかったら、気づいていなかったら、あのドラマを見ていなかったら。
私はたぶん語学に興味なんて持たなかっただろうし、今こうして良い環境に身を置くことができていなかっただろうし、今の交友関係ももちろんなかっただろうな、とそう心から思うもはや人生の岐路にかかった一曲なんです。
どうして語学とかと関係するのか、なんで語学学習または習得または、それに触れることに意味があると私が考えるのか、は話が脱線するのでまた今度。
発音で気づいたというのも我ながら好きポイントですね。
さあ、こんな運命的に出会ってしまったらそれが最後。拗らせを急加速させます。
周りは誰も、彼女どころか洋楽にも興味を示さなかったので、共有する相手はおらず、それがいつからか、共有したくないものに。
「好き」が自分の中でどんどん高まって、高尚になりすぎたというか。
最近は、「好きだ」ということを表すのに、「尊い」とか「無理」とかいろいろ使われますし、私もそれしか言いません。
でも、私の10年弱の彼女に対する心の奥底から湧き出る感情を表すのには「好きだ」というのが一周回って、いや何周も回りすぎてもう分からないけど、一番ピッタリくるんです。
純粋に好きで、好きで、好きで。
英語で言うと、adore だと自分では思っています。「好き」にもっと尊敬の気持ちが加わって、やはり、それよりも高尚な印象を受けるからです。
話がそれますが、こういう風に言語化したのはここ最近です。
これまではひとに共有したくない、知られたくない存在だったからです。
(シンプルに、①知名度が上がってほしくない②私も好き~とか言われたら縛り上げちゃう)
それから、これはちょっと先ほどの語学と関わってきますが、CD購入のこだわりがあって。
「日本版は基本買わない。」
彼女にとっちゃ、迷惑な話です本当に。日本でも活躍できるように買えって話です。
これは、日本での知名度を上げたくない、ではなく。
日本版買うと、勝手に歌詞の対訳をつけてくるんですよ!!!!!!!!
頼んでないのに!!!!!!!!(それはそう。)
「訳する」っていう行為は、結局、翻訳した人が咀嚼するってことだと思うんです。
誰かによって咀嚼、解釈されて、彼女の生の言葉じゃなくなったメッセージ。
翻訳者のフィルターにかけられて、その人の目線からそのメッセージを読まざるを得なくなる。
カメラや映像媒体が受け取りての視点を恣意的に決定固定してしまうのと私にとっては同じ感じがします。私には。
私と彼女との1on1の対話、唯一そこでだけ可能なその会話を妨げないでほしい。
その気持ちが日本版を買わなくさせています。
さあそこで。
彼女と対話するのに圧倒的に必要なもの。
英語力。
中学一年生。
be動詞を使った自己紹介と、相手の体調を聞くことしかできません。
ただ、英文法の全貌もわからないので、ぽこぽこ選手、チャレンジします。
彼女の歌、自力全訳。
まずは先ほどのYours Trulyではなく、EテレvicTORIousの劇中歌CDをアメリカから輸入しておりましたので、そこから取り掛かりました。
父親が持って帰ってくる会社の大量の裏紙に歌詞を書いては紙辞書を引き、訳す。
あ、もちろん歌詞をネットで調べる時は「(英語で曲名) lyrics」です。じゃないと、日本語サイトが引っ掛かり、訳してくれちゃうので。
現在完了ってなんじゃ!!!!!!!!!!!!!と中1ぽこが叫んだことは覚えてます。
その後、Yours Trulyに入ってからは、リングノートを買って手書きで相変わらずやっていました。
話すと全部の曲に思い出があるので枚挙にいとまがないので、泣く泣くカット。
まあ、こんなかんじで、彼女はまさに私の背骨に、DNAに、アイデンティティになっていきました。
つまり、私にとって「好き」って言えるのって、このくらいのことなんです。
それは自分にとっても、人にとっても。
もちろん、最初はTwitterやInstagramの英語を読み解くのも苦労したし、そこで彼女によって発信される、ジェンダーの問題や人種(この言葉がもう嫌いだけど)問題なんかにもすごく興味を持つようになりました。彼女のメンタリティも考え方も。
だから、私の見る世界もその世界の見方も全部全部、彼女が私にもたらしてくれたもので。
それは、アイデンティティでしょうか。背骨でしょうか。何なんでしょうか。
私はよく、「私は彼女の信者だ」と言ったりしますが。
とかく、私の中には、彼女の精神が住んでいます。
彼女はアメリカ社会で育って、その文化で価値観で生きて、彼女の友達は私の生きる世界にはいないし、でもそんな薄っぺらい部分じゃなくて、
彼女の
「人間を超精密ろ過装置にかけたときに残る、人間の最たるエッセンスの部分」
みたいなものが私の中にあって。
言葉にしづらいし、区切りがあって数えられるものでもないし、でも確実に、私という存在の基盤を作っているんです。
私という人間ケースを機種変しても変わらない部分。
多分それがアイデンティティってやつだとは思うんですけど。
自分にとっての 当たり前 がきっとアイデンティティですよね…?
あまりにも抽象的な言葉だから使い勝手はよくて、でもとても人を困らせる言葉ですよね…
あなたが、ひとが、そこに存在している、ということすらアイデンティティになると思うし、時とばで変化しうる七変化なもの
例えば、電車に乗っているときなら、この両の進行方向右側の端の席に座っているという事実すらその場所においてはアイデンティティだと思います。
その人のID、その人をその人たらしめる証明書みたいな…。
話が大逸れしました。 Twitterでそんな話をみたもので…
2彼女は「推し」なのか
淳太君が全然出てこないというクレームは受け付けません
皆さんの「推し」ってどんな人ですか。
応援している人、好きな人(芸能人などの)、と「推し」は別項ですか?
これは、ずっとみんなに聞いてみたかったことです。実は。
私は、好きな人と推しは別です。
先ほどから登場する彼女は私の好きな人、好きなアーティスト。
お待たせしました、ジャニーズWEST 中間淳太君は推しです、今のところ。
いくつか理由はあります。
まずは、比較的論理的で、自分にとって新しい自論から参ります。
ー「推し」という言葉は、日本語圏文化に適応される感じがするからです。
最近はNHKさんでも推しとかヲタカツみたいな単語取り上げて若者を虎視眈々、狙ってますけど、すごく、俗語ですよね。
日本語特有のこの表現は、その日本語圏でもたらされた、そこで育まれた文化にとっておきたい雰囲気があります。
だから例えば、JKT48とか海外ですけど、秋元さんの作った日本の女性アイドル文化ですから使いたい気がします。
(感じる、とか気がする、とか使ってて全然論理的じゃない)
だから私は、彼女は「推し」に括りたくないんです。
>余談
私が「彼女」って呼ぶのは、お名前があまりにも尊くて畏怖の念を感じて発せないためです。ここ2年くらいで治ってきましたが、それまでは(ファン公開していなかったので機会もなかったけれど)名前を口から発声しようとすると口が震えて、何度か涙が込み上げてきたこともありました。その名残です。お許しください。
ー「推し」って推さなくなる可能性を示唆する気がする
私の言葉に対するイメージなので、そんなことない人が多数だと思います。
個人的な語感の話。
「推す」って、ある不特定多数の集団のなかから、特定のものを押し上げて、または、摘まみ上げて見やすくして観察する、っていう印象です。
だから、もし、その人を下から持ち上げる手を休めたら、周りの不特定多数と頭の高さが同じになって、今まで見えていた首やら腰やらましてや足元(推していても見えることは希少だと思いますが)なんて見えなくなってしまうんです。
でも、私がもし彼女を応援するのを辞めたとして、彼女が見えなくなること、彼女が関係していない世界を観ることがあるのかなって。
重複するけれど、今見ている世界は彼女が見せてくれている部分が大半です。
だから、「推し」っていう域を軽く超越しているような気がしてならないのでございます。
きっと、人間形成の大切な時期に彼女と関わったっていうのも大きいとは思います。
でも、人は出会うべき時に出会います。
もっとフラットに「茶の間」できる体質なら、違ったんだろうなぁ~
もっと簡単に好きになって推しにして楽しめたかなぁ
以上大きく分けて2点が私にとっての「推し」であり、「推す」ということです。
3淳太君は「推し」……だと思う
淳太君は私的「推し」要素を満たしていそうです。
本当は「好き」にしたいけど、さすがにそこまで言える口じゃなかった…
それこそデビュー前からずっと応援していて、彼にたくさん感化されて影響をうけてきた人ってたくさんいると思うんです。魅力的な人だと浅っっっっっっっい私ですら思うんだから…。
好きは時間じゃない。歴なんて数字だ。
それもすごく分かる。
同様に、
歴は大切だ。
これも痛いほどわかる。
時間という人類がどんなに欲しても人より多くもらうことができない魔法のようなもの…。
あとからは取り返せない。どんなに当時の映像や音楽を集めたって、同じ時を共有したことにはできない。
私が新規であり、古参であるから、痛いほどわかる。
まあ、結局上下関係なんてないし、よく言われる通り、
新規がいるから古参は応援し続けられる。古参がいるから新規は出会える。
これにつきます。マウントダメ、ゼッタイ。
マウントのコツは、「私鬼古参だから!!!!!!!!」とむしろ高らかに叫ぶこと。ナチュラルに、私の方が知ってんぜ?感を出すのが悪い。(善悪に持ち込むのはよくないですね。)
だから、淳太君は私の大切な尊敬する「推し」です。
出会うべきときに出会えました。
決して推さなくなるつもりがあるわけではないことは断言します。
私の「好意を向ける」は既知の通り激重なので。
一度好きになったら、相当離れない自信があります。
またちょっと話が逸れまして、
私の好きになるという感情はちょっと怖かったりします。
あまりにも猪突猛進で。
何だろう、その人の言うこと全てが「正」になっちゃうんです。
猪突猛進ならぬ、猪突猛信
法に触れたらアカンと思います。さすがに。
私の脳の中の法律では、彼女が憲法であり法律、条例です。
良くないと思いながらも、でも私は何があっても彼女を信じます。
犯罪を肯定するとかではなく、人とその人の成すことは別で、彼女という人、彼女の「アイデンティティ」を私は信じます。
「推し」の淳太君に話を戻します。
情報番組で言ったことに賛否両論がつくのは何とも思いません。
私は、自分の意見を発信できる人が好きです。尊敬しています。
だから、むしろそれに賛否両論つくなら本望かもしれない。
でも、もし、わたしの「推し」が人を殴って、そうじゃなくても犯罪をして、燃えたらどうする?
犯罪と人を切り離して、「あなたのアイデンティティを信頼しています。」って言えるのでしょうか…。
「そもそも彼はそんなことはしないよ!」
そんなことは百も承知、知ってる。知ってる。分かってる。当たり前。
早く、もっと、たくさん、知りたい。
私のこの不安がかき消されるように、かき消せるように、生の言葉がもっと欲しい。
でも、彼女よりよっぽどたくさん身の回りにあふれているのになぁ。
言語の問題か?
母語が共通だから言語的に解析できないのが悔しいくらいだ…。
数年前は英語が母語ならよかった、って泣いたくせにね…
でもとにかく、すべての出会いに私は満足しているし、彼女に出会った時期も、淳太君に出会った時期もどれも怖いくらい適正で、とにかく私は温かい気持ちでいっぱいです。