観劇だいありー『赤シャツ』
*ネタバレを含みます。
先日『赤シャツ』を観劇してきました!
詳細には書けないけれど、いろいろなご縁とご協力で行くことができました…
頭が上がりません。
今回も変わらず、私の印象に残ったこと、考えてみたこと、あってるか間違ってるかは分からないけれど記しておこうと思います。
まずこれを機に『坊ちゃん』をちゃんと読み、いわゆる”日本文学”に触れる機会を得られたこと大変感謝します。
何せ『こころ』を読んで以来、この人だけは無理!な感じになっていたのだけれども、なるほど面白い!と思いました。でもやっぱり根底には『こころ』とつながっている所もあって、すごく胸が躍りました。
私は文学そのものよりも、文学を抽象化したときに何を訴えたいのかがわかるのが好きで。もちろん娯楽のために読書をすることも往々にしてあるんだけど、勝手に社会派みたいに解釈を加えてしまって、いい迷惑読者だなぁと思います。
夏目漱石は思想家の側面があるとスーパー素人は認識しているので、
とても楽しい感じがしました。(雑)
パンフレットの初めに書かれたこのセリフ
「あーあ、それにしても噂という奴ほど度し難いものはないね。勝手な一人歩きを始めてどんどん尾ひれが付く。」
このセリフが『赤シャツ』の真骨頂なのであるけれども、
同時にそれをアイドルが演じるということ、それに私はまず心を動かされました。
心が動く、というか、むしろドキッとしたの方が正しいかもしれない
赤シャツというのは、坊ちゃんの言わずもがな意地悪教頭先生に坊ちゃんがつけたあだ名で年中赤シャツを着ていることが由来。
パンフレットによると、赤というのは魔除けの色であり、彼の用心深さがうかがえますね、とのこと。
舞台では、彼は外出中のスーツ着用の際だけでなく、部屋着としての着物のしたにもそれを着用していたのだからあっぱれです。
奇しくも、照史くんは昔から仕事の時は赤いパンツを履くことにしているそうで。
そこには魔除けというよりも、願掛けと他責思考を避けること(ここでは長いからカットしますが)に意図があるようですが、運命だなと思ってしまいました。
この『赤シャツ』という脚本は2000年夏ごろに書かれたそうです。
『坊ちゃん』は坊ちゃんの一人称視点で書かれ続けるのであって(それが面白さを生み出すわけだけど)、じゃあその視点での悪者:赤シャツから見た世界はどうなっているのだろう。
「坊ちゃんは少々アタマが悪い*1」と作者マキノさん(パンフレット40貢)
無鉄砲でアタマが悪い人間の一人称視点の世界なんて、確かに早とちりだらけかもしれない。そう思ってより一層楽しみになりました。
だからこの舞台は「もしかしたら赤シャツってこういう人だったのかもしれない」という一説を描いたものであって、ある種の仮設なわけですね。
この仮説を立てるにあたってキーとなっているのがこれ。
「赤シャツには、漱石が投影されている。」(パンフレット42貢)
演出宮田さんのお言葉をおかりすると、
・日本の将来への不安感をいち早く持っていた人
・ロンドン留学を経て、日本が西洋に追いつけないことに身をもって感じていたのに西洋の真似をし続ける日本をみて、このままでは日本の大切なところが失われると悶々としていたんじゃないか
・自身はロンドンで打ちのめされたのに、日本に帰ってきたらエリートともてはやされるジレンマ
・無鉄砲で曲がったことが大嫌いな「坊ちゃん」は自分とは正反対で、こんな風に生きられたら、と思っていたのではないか
(パンフレット43貢)
激動の明治時代に生きた漱石はこんな人だった。
難しい言葉ばかりを並べてそれっぽい事を言って回る「エリート」文学士赤シャツは、漱石を映しているのではないか、というわけです。
もう少し気になったので、夏目漱石について調べてみました。
(夏目漱石の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 明治ガイド (bakumatsu.org) 2021年9月12日閲覧)
1867年2月9日東京都生まれ。帝国大学(現・東京大学)に入学し、正岡子規など友人を得る。「木曜会」と呼ばれた文学サロンを開催し、そこから多くの著名人を輩出した。
まずここで、しっかり文学士被り。
さらに「木曜会」を開いていたと‼‼
『赤シャツ』では赤シャツが野だいこ(画学教師の吉川)とうらなり(英語教師の古賀)を連れて「ミューズの会」という文学サロンを開いていました。
お~!
ミューズというと音楽の女神のイメージだけど、文学や文芸全般のことを指すそうで今日のmuseumの語源でもあるそう。
あともう一つは徴兵忌避/北海道籍にあるのですが、これは後程です。
やっと舞台の話に移っていこうと思うのですが、
冒頭はその「ミューズの会」から始まります。
うらなり先生とマドンナの破約がそこで告げられるわけです。
赤シャツが最後坊ちゃん(と山嵐)にフルボッコにされた原因は、
(まあいろいろありましたが)うらなり先生の婚約者であるマドンナを奪って、さらにはうらなり先生を延岡に飛ばしてここから消してしまった”最低な奴”。更に新聞にあることないこと書かせて、そのうえ遊郭で遊んでいると。そこを見張りに見張られて、野だいことともにやっつけられてしまって…。と。
だから、
「あーあ、それにしても噂という奴ほど度し難いものはないね。勝手な一人歩きを始めてどんどん尾ひれが付く。」
赤シャツはマドンナを奪ったのか。
うらなり先生が邪魔で、延岡に飛ばしてしまったのか。
「四国新聞」に坊ちゃんと山嵐を貶める虚偽の記事を書かせたのか
はたまた、赤シャツは野だいこを本当に可愛がっていたのか……
全ては、噂?
ここで戯曲の粗筋を説明するのは、誤用での役不足、要するに私の力不足なのでやめておきます。
が、なんとなくこれで話はあらかた見えるのではなかろうか、と思います。
マドンナというキャラクターも改めてみると面白くて、
パンフレットを読んで知ったことばかりを書くのですが、(パンフレット46-47貢)
まず当時の女学生の典型的なファッションが、
紫の袴に大きな頭部のリボン。
そんな恰好をしたマドンナは、”自転車”にのって赤シャツの家で開催された「ミューズの会」にやってくるんです。
自転車。これが面白くて。
今じゃ庶民的!って感じだけど、当時の情景から行くと、女学生が街に一台のフェラーリに乗ってる感じ!と。(パンフレット33貢)
しかも、マドンナが使う「~ですわ」「~ますの」「~てよ」は当時は俗語で雑な言葉遣いだったらしいんです。
今風に私が置き換えると、
実家が太くて、教養もあって、制服なのにフェラーリに乗って、「やばくね?まじ卍」とか言いながらブイブイいわせてる公務員の婚約者持ち
っていう感じでしょうか。知らないけど。
私だった結構好かないなぁ~~~~~とか思いながら(笑)
しかも『赤シャツ』ではマドンナが結構いけ好かない女性になってるんですよ(笑)
一方の赤シャツは相変わらずよく喋るんですよ。
原作通り漢熟語を並べて。
それっぽいこと言ってる現代の人って、カタカナ並べるじゃないですか。
アジェンダじゃなくて目次って書けよ!!って思うんですけど。
そんな感じなんだなって思いました。
照史くんも、難しい言葉並んでわかんないかもしれないけど、でも相手がわかんないっていうことを目的に赤シャツという人は言葉選びをしているから、ある種漫画を読んでいるような感覚で楽しんで、って言ってました。
確かに1000年前も、紫式部が清少納言に対して、
漢文への識があるからってそれをひけらかしているのはむしろ馬鹿よ~
みたいなこと言ってましたもんね(勝手な訳)
今も昔も人間は変わりませんね…
原作ではほとんど出てこなかった赤シャツ弟・武右衛門(松島聡くん)が活躍するのもこの『赤シャツ』の面白いところでした。
この兄弟はなんともいえない歪(いびつ)さと兄弟らしさをはらんでいるわけですが、
武右衛門の感情が爆発する瞬間に出てくるのが兄の「徴兵忌避」についてです
先ほどの「赤シャツ」と夏目漱石の共通点ですが、
徴兵忌避を目的として本籍を北海道に置いていたという点です。
(あの文豪「夏目漱石」が岩内町に住んでいた?戸籍が示す意外な関係性│北海道ファンマガジン (hokkaidofan.com)2021年9月12日閲覧)
漱石は現在の北海道岩内町に籍をおいていた。というのも当時は国民皆兵が唱えられたもののそれに対する抵抗は大きく、そのようにして徴兵を免れる土地に本籍を置く者が少なくなかったそう。
「赤シャツ」も同じです。
でもそうやって自らは戦地には向かわず、地元で教師をして文学ばかりしている兄を弟は肯定できなかった。
だから武右衛門は陸軍幼年学校(軍人エリート学校)への進学を希望し、
それは兄に対する彼なりの反面教師。
「自分が生きていられるのは、何人もの人が兄の代わりに死んでいるからだということに何とも思わないのか」と声を荒げて。
「何も思わないわけじゃない、だからここ何年かは辛くて仕方がなかった毎晩辛くて」と弟を前に初めて本音、弱いところを見せる「赤シャツ」
この兄弟には、もちろん考え方の違いもあるけれど、兵士にたいする世代間ギャップがあるようで、
徴兵が始まったばかりを体験する「赤シャツ」世代と、日露戦争で日本が勝利をおさめ(もちろんポーツマス条約で賠償金が取れなかったことによる日比谷焼き討ち事件などがあったけれど)出兵することへの抵抗感は若者を中心に少なくなっていったようです。
もう少し話すと、「赤シャツ」家の下女・ウシと「赤シャツ」懇意の芸者・小鈴はその場面で、日露戦争で親族を失くしていることを告白する。
「女は皆、戦争というものが嫌いです。」
と訴えるウシの発言も鑑みると、
本音と建て前と本音とが世間で幾つも隆起して織りあわされて、
なんだかこういう発言は自分がしそうにないし、誰にでも書けてしまう言葉だから建て前みたいになりそうでいやだけれど、
今の日本が少なくとも戦争が起きていないという点で平和であること、にとても価値を感じるし、ありがたいことだと思いました。
それだって80年も戻れば戦争をしていたわけですから、歴史の長さを振り返ればまだまだ足を洗えたとは思えないし、戦争は宿命でも運命でもなくて人間の意志なのだから、人が簡単に死ぬようなこと、二度と起こしてはならないのだと若者は若者ながらに思いました。
それから「赤シャツ」はその時、
「(戦争のように)荒っぽい事は苦手だ」とも言っていました。
それは「赤シャツ」というキャラクターの根幹で口癖の
「それでは角が立つ」
にも筋が通っていて、兎に角、「赤シャツ」はこれを避けたい。
丸く収めたい。
「親譲りの八方美人で小供のころから損ばかりしている。」
このセリフがすべてを表しているようで
「赤シャツ」は八方美人で自分の評判を気にするし、
でもそれは、
マドンナに言い寄られたのを断れないのも、
好きでもない野だいこを突き離せないのも、
他にもいろいろ全部、相手を傷つけたくない故なのではないか、と。
マドンナを断れなくて、マドンナにあることないこと吹聴されて噂がたって、噂は大きく成長しながら彼を蝕んでいく。
相変わらず野だいこは「赤シャツ」にすり寄ってくるし、
弟のせいで巻き込まれて社会的冤罪を食らっている坊ちゃんと山嵐を助けようと新聞記者についた嘘があだとなり記事は消されないし、山嵐には早とちりされて益々の恨みを買うことになる。
うらなり先生が延岡に飛ばされちゃうのも、うらなり先生たっての希望なのに、「赤シャツ」が飛ばしたんだと言われる始末。
挙句の果てに、誤解で「ぽかぽか」殴られるんだから最悪で。
芸者の小鈴とは同じ部屋に泊まったわけではないのに、
坊ちゃん山嵐ペアに誤情報が流れ込み狙撃される。
ボロボロになって朝、「赤シャツ」は帰宅。
そこには事情を知って先に家に向かっていた例の芸者の小鈴がいて。
そこで痛々しいくらいに自嘲めいて、あの用心深い彼らしくない唐突なプロポーズだとか本音だとか、全部ぼろぼろ出てきて
噂に振り回されてやけになってその夜は飲まない酒をたんまり呑んで、
それで小鈴にプロポーズして、でも小鈴からしてみれば本気なんだかわかんないしとりあえず断った。
で、朝になったら「赤シャツ」が殴られたと聞いたから驚いて家に駆け付けたら、
「小鈴に振られたからマドンナのところに行ってプロポーズしてOKもらった」とかいう大嘘を突き出すんですね。
でも小鈴はそれも嘘だってわかって、ひたすらよりそって、「赤シャツ」の話を聞いてやっていて、
明確に断言されっるわけじゃないけれど、二人は結ばれるのでしょう。
最後に、
学校へ出かける弟に対して、陸軍幼年学校への進学を認めて取り計らったことと、
父親の財産を弟に六百円ばかり譲り渡し、あとは面倒はみない、それだけあればやりくりできるだろう、と告げるんですね
ここが、まさに原作「坊ちゃん」と同じで、
坊ちゃんも、兄が九州に旅だつ前に財産のうち六百円を譲り受けて、
それを資本にして商売するなり好きにしたらいい、と言われて物語が動き出します。
ここからは私の憶測の域をすぎないのだけれども、
坊ちゃんは兄から六百円もらって結果教師になりこんな人たちと出会った。
出会った先の人も弟に同額を渡し、弟は家を離れる。
そしてまた弟はその先でいろんな人と出会っていく。
その輪廻の中において、
常にその人にとっては、つまり一人称視点の物語としては、理不尽なことそりが合わない人がいるかもしれないけど、でも相手の視点で見たら相手のコントロール範疇ではないことが連立して、そこにはそこなりの理屈がいつも存在している。
「第二者、ひいては第三者視点を常に欠かしてはならない」
そんなメッセージを私は受け取りました。
きっとこれから原作を読み直したり、戯曲を読み直したら、もっともっと面白い発見ができるんだろうな
1回では現段階ではこのあたりでお暇しないといけないかもしれません。
劇中で気になった言葉をほいほいっと投げるだけ投げますね
・教師という聖職者(ささるひとにはささりそう。我は聖職者くらいの者だぞという意味なのかいわゆる現代で言う我は聖職者なんだぞ、なのか。おそらく「赤シャツ」的には前者だろうと思うが、20世紀の作品を通して21世紀を見通そうとした作者の心を踏まえれば、『赤シャツ』としては両者を含蓄すると考察できるのではないだろうか。)
・「淡泊な処置が気に入った」(これは原作の坊ちゃんのセリフで、舞台で誰がいったか忘れてしまってそれが大罪。)
あとは、照史くんが、聡くんが素敵だったところを残しておきましょう!!
本当に平たい言葉で嫌なんだけどやっぱり言わさせてほしい・・・
照史くん、かっこいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
かっこいいです・・・・貫禄。
カテコのとき、堂々とゆっくり歩いて胸を張って全体を見渡していて、
座長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
だった。
なのに、最後、セットの障子のガラスの部分から手だけだして振ってくれたり、
にこってしてくれたり・・・
多分最後に手を振ったりにこってしたら会場が(声だしダメ分かっていても)盛り上がってしまうと自覚してか、
3回目出てきた時に初めにしーって口に指をあてていて、
予言者!!!!!!!!確信犯!!!!!!!!!あああああ!!!
って思った死んじゃう。
あとは、全体的に作品中に笑えるところが多くて、原作も痛快さが有名だし、
その中でも「赤シャツ」は下女・ウシに対しては一人称「僕」で本音や甘えん坊な感じを漏らすんですが、
照史くんがやるからこそ、嘘みたいにかわいくて愛らしい「赤シャツ」になっていて…
もうやだーって感じてで床にうつぶせになったりするシーンがあるんだけど、
あまりにも可愛くステフォ!!!って叫んだ
あとはもう少し真面目な話をすると、
照史くんが「赤シャツ」を演じると聞いて、何となく、
似合う!
と思ったんですよ。
それはあのいやらしい感じが、とかではもちろんなく、その正体は声だったんですね。
照史くんのあの声が、私が描く『赤シャツ』像と合致して。
原作を読んでみると、確かに声の描写多いんですよね。
自分の中でイメージがあるものほど、現実との乖離って大きくなるけれど、
実際どうだったかというと、想像してたのと実際とで半々くらいかなぁ。
私にはとってずっと刺さっている言葉があって、
「誰が聴いても納得できる音楽をしないといない」
といもので、
私はかれこれ10年くらい?合唱をやっているのですが、
音楽のコンクールはスポーツと違って明確な点数で競うものじゃないんです。
もちろん同じ曲だって、人によって解釈もイメージも異なるし、それは審査員一人ひとりにおいてもそう。
だから演奏者は何をしないといけないかいうと、
色んな理想をもつ彼らに「イメージとは違ったけどそれいいね!というかその方がいいね!それ好き!!」と感じさせる、誰もを納得させる音楽をしないといけない。
今回の声も同じで、確かに想像と半分同じで半分違った。
でも、before「赤シャツ」で描いていた声が塗り替えられてしまってあまり思いだせないくらいに納得感がすごくあって。
私は観劇に長けた人でも経験者でもないから、なにもわからないけれど、
私はとってもとってもいろんなものをプレゼントされた気持ちです。
一方の松島聡くんは初めて生で拝見しました。
レコメンは必ず聴くのでQRゾーンでお話を聞いたりしていて、
その時から、なんかあったかくて好きだなと思いました。
ブログも「赤シャツ」始まってから拝見したけど、
日本語がとても丁寧な印象を受けました。
言語の徒としては、やはり言語と思考回路の相関性を信じずにはいられないので、
こういう言葉が飛び出すということは、こういう人柄なんだろうなとにこにこしてしまいました。
そんな彼が演じるからこそ、武右衛門は憎たらしいけど憎めない、感情をあらわにして兄に飛びかかる場面は息をのむものがありました。
カテコでは、高橋ひとみさんと仲良くしていらっしゃったのが印象的で。
最後二人で「赤シャツ」の真似をしたり、王子様とお姫様みたいに手をつないではけていったり、例のガラス小窓から屈んで顔をのぞかせてくれたり…
弟にしたさすぎますね
制服姿もまだまだいけそうでした(笑)
ジャニーズWEST、秋舞台の陣。
序章。
これからまだまだ待ち構えていると思うとドキドキソワソワしますね…!!
これから残りの東京公演と大阪公演。
舞台『赤シャツ』関係者皆様のご健康と最終公演までの上演を願って、
そしてこのご時世に舞台の機会を作ってくださり、足を運ぶことができたことに感謝して、
この観劇だいありー『赤シャツ』を終わりたいと思います。
長きにわたる駄文に目を通していただき、感謝いたします!
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舞台『赤シャツ』公式パンフレット
夏目漱石『坊ちゃん』岩波書店. 2019年3月15日第120刷.
*1:笑